大江戸北斗七星ツアー〜4

【終わりに】


 私は一日目のみの参加だった。すぐに探訪記を書くつもりだったのだが、勉強不足の私には何故あれらの神社仏閣を巡ったのか、わからないものが多々あった(後半特に)。竹内さんや他の皆さんのHPで勉強すればすぐに納得できるのだろうが、しょっぱなからそれをしちゃあいけない。それと分からなかったことは時間は掛かるけどこれから自分で一つ一つ、探っていきたいという思いもあった。
 それで、これを書き始めながら、とりあえず加門七海氏の他の関連本を読もうと思ったのだが図書館で手に入らず(誰かが無断で持ち出してしまったようだ)、うだうだしているうちに日にちが経ってしまった。

 そんな5月の連休も始まろうとする週末、私は仕事で、あるブックフェアに行った。出版社が本を割引きして売っているコーナーもあるのだが、持ち込まれた本の種類はそれほど多くはない。が、そこに加門七海氏の“魔方陣3部作”が揃いも揃ってあったのだ。即購入。しかも2割引。神様ありがとう(笑)。

 読んだ。
 が、しかし、それでも私には分からないことだらけだった。頭の中で、あれとこれがこう繋がって、でも実はこうでああで、するとこれはこうなって…。ある程度関連付けて理解できるようになる為には、私には歴史の基礎知識を勉強すること、もっとたくさんの資料を読み込む力と時間、そしてあと少しの脳みそが必要だと悟ったのであった…。
 ま、脳みその問題は逃げ口上となるので置いといて…。

 疑問点ばっかりのままアップするのは少々気が引けたが、私がいろんな文献を読んで理解する頃にはもう、アトムが空を飛んでいる可能性もあるので、とりあえず未消化のまま、今の私が書けることを“探訪記”として記すことにしたわけである。
 後々、いろいろ勉強し吸収して、これらに関連する事柄について何か書けるときが来るやもしれず…。今はここまで。

(2003.5.11 了)


【後日談】

 まだツアー探訪記を書き上げていなかった5月の連休に、実家に近い栃木県佐野市にある唐沢山神社とその麓、田沼町にある一瓶塚稲荷神社に行ってきた。

 唐沢山神社は、藤原秀郷が築城したという伝説があり、その後裔の佐野氏によって完成された山城跡である。佐野氏は徳川時代初期、徳川によって唐沢山から移城、改易させられる憂き目にあった(その後旗本として生き残ったが)。そして明治になり、佐野氏の後裔が佐野氏・秀郷の遺徳を偲び、秀郷を祭神として祀ったのが唐沢山神社である。
 その神社の山門の屋根にある紋の意味は…?

 唐沢山神社のほど近くにある一瓶塚(いっぺいづか)稲荷神社は秀郷の後裔である佐野氏が文治2年(1186)に祀った神社。徳川五代将軍綱吉公も(群馬県)館林尾曳城主の頃に毎月代参をさせていたそうな。この神社には佐野市の名産品、天明(てんみょう)鋳物で造った鳥居がある。その鋳物師たちのもとをたどれば、遠く河内国から秀郷が連れてきたという。
 秀郷にはムカデ退治の伝説がある。少し前に竹内さんのHPで知ったことだが、ムカデは鉱物、鉱山(ヤマ)師と関連があるらしい。ムカデを退治したということは…。そしてツアー序盤に出てきた秦氏、こちらも鉱物が絡む。お稲荷さんの鳥居は朱塗り。朱は丹。丹…。

 何も知らずにこのツアーに参加して、思いもかけず身近に面白いモノを見つけてしまった。竹内さんの話によるとそのあたり、安倍晴明さんも関わるそうな…(ええっ?!あの晴明さんが?)。まあ、私にはまだ何とも言えないし、実在した晴明さんがどんな人物だったかは謎なわけで…。


 さて、私はうごめく歴史を見つめる入口に立ったばかり。これから先、過去の歴史は私にどんな面白いことを見せ、語ってくれるだろう。
 私は過去と言ったが、時間というものはただ一方向に流れているわけではなく、過去は現在の中にあり、未来も現在の中にある、とも言われる。過去の事柄を思い起こす時、それは現在なのである。現在は未来をも含んでいる。

 さてさて、この現在、面白くするもしないも自分次第。ってことで、将門、秀郷をめぐる私の探訪はまだまだ続きそうである…。

(2003.5.30)

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★序

★1 鬼王稲荷神社

★2 鎧神社

★3 水稲荷神社

★4 穴八幡〜浅草

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